今日は非常に長文となります。ご注意下さい。
今回は電気の史料館の第7回企画展,
「電気は人なり」という展示パンフレットからの引用があります。
また,ウィキペディア,電力中央研究所HPからの引用もあります。
すみませんが,貴重な内容なので掲載します。
みなさまは,現在の電力会社の体制がいつどうできたかご存知でしょうか?
JRやNTTと違い,ご存じない方も多いのではと思います。
元々,電力業界は鉄道や電話と異なり,ほぼ完全に民間主導で発展しました。
もちろん,今と同じく,官僚たちは何とか乗っ取ることを目論んでいました。
いろいろな利権・天下りができるからです。
そんな中で日本は戦争へ向かっていきます。
その軍国主義の下,1938年に電力国家管理法が成立してしまいました。
これは,電力会社を発電・送電を全国区で行う日本発送電という会社と,
ちょうど今の電力会社区分と同じ,配電を行う9配電会社に再編するものです。
もちろん,官僚支配の国策会社なのでした。
今回の主役である当時の九州・東海で電力会社を経営されていた
松永安左エ門さまは,すべてを官僚によって奪われ,
所沢の山荘に隠居。茶室「耳庵」をつくり,
茶道三昧の生活を送り,完全に過去の人になったかに見えました。
しかし,決して松永さまは終わりませんでした。
終戦後,GHQは日本発送電を独占指定し,解体を要求しました。
それを受けて,吉田内閣が電気事業再編成委員会を設置。
極めて難しいこの委員長に松永さまを任命しました。
他の委員や,経済界,労働組合とすべてが完全分割に反対し,
ほぼ四面楚歌の中,白洲次郎さまが強力にサポートされました。
松永委員長自身も,足繁くGHQに通い,9電力分割案を説明し,
当時の池田勇人通産大臣を納得させ,政府案となりました。
しかし,国会では大紛糾し,結局廃案に。
そこで,いわゆるポツダム政令によりついに電力は民間に戻りました。
(ポツダム政令:GHQの命令により国会審議を経ずに公布できる特別政令)
次に問題となったのが発足したばかりの会社の経営でした。
改革とともに,発足した公益事業委員会の委員となった松永さまは
電気料金の訂正価格の算出を行い,75%の値上げを提案します。
これには,経済界・消費者ほとんどが大反対し,電力の鬼とまで呼ばれました。
抗議の手紙が殺到し,”松永を殺す”というものまであったそうです。
それに対して,松永さまは以下のように国会で演説されました。
「飼料を十分に与えずにいれば,国民を長く養ってくれる牛乳は採れない。
親牛も死んでしまう。
子供が可愛いのであれば飼料代を嫌がるのは間違いである」
この演説や各種説得により,徐々に反対論は弱まります。
そして,GHQにより2段階に分けての電気料金値上げが実施され,
当時低迷していた電力株は高騰し,経営は安定化します。
それにより,新型発電所の設置などにより日本の電力は
安定で低廉なものへと発展していきました。
あわせて,学者や技術者を大切にする松永さまは,
1951年,電力技術の研究開発を効率的かつ外圧に影響されることなく実施するため,
9電力会社の合同出資でありながら,完全中立を堅持する公益法人として,
民間初のシンクタンク電力中央研究所を設立し,晩年は自ら理事長に就任しました。
因みに,米寿の祝いは,池田勇人内閣総理大臣だけを呼び,
何もない,電力中央研究所本部の屋上で行ったそうです。
また,松永さまは,戦後,生存者叙勲制度が復活した際の,
最初の勲一等瑞宝章叙勲者です。その際,池田勇人内閣総理大臣が,
松永さまを候補者に挙げ,誰からも異論はありませんでした。
しかし,料亭で池田から打診された松永さまは
「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高し,帰ってしまいました。
池田総理から松永さまの説得を要請された永野重雄さんは,
『(あなたが叙勲を)受けないと生存者叙勲制度の発足が遅れて,
勲章をもらいたい人たちに,迷惑がかかる。
あなたは死ねばいやでも勲章を贈られる。
ならば生きているうちに貰った方が人助けにもなる』と松永さまを説得した為,
松永さまは不本意ながら叙勲を受けることにしました。
それでも松永さまは抗議の意志を示すため,叙勲式典を欠席しました。
その後,栄典の類は反吐が出るほど嫌いだとして,死後を含め全ての栄典を辞退すると公言します。
このため,松永さまの訃報を受けた佐藤栄作内閣が
政府叙勲を即日決定したものの,遺族は松永さまの遺志を尊重して辞退しました。
その後も,産業計画会議を主宰し,東名高速道路・名神高速道路の計画や,
国会でも物議を醸した日本最大の多目的ダムである沼田ダム計画を発表したりと,
今の日本の礎を築いた方でした。
77歳になった松永さまは各地の諮問会に出席し,
多忙にも関わらず福島にある只見ダムの建設計画を聞くとすぐに現場に飛んで行きました。
松永さまの視察は大臣や高官のものは違い,自動車が入れないような場所にある
粗末な小屋に泊まり,ドラム缶の風呂に入り,第一線で働く工事現場の人たちの苦労を味わう,
というものでした。
その目や体で確かめないと納得しない。只見に限らず,九州のダムであっても同じでした。
現場を見て回る癖は死ぬまで直らなかったと言われています。
当時から国鉄や電電公社の民営化を主張されており,それが正しかったことは
今のJRやNTTを見れば明らかでしょう。
没する2週間前まで毎週電中研に通っていたという逸話も残されているほど,
その熱意と気迫,行動力は並大抵のものではありませんでした。
強固な意志・極めて鋭い先見性・説得力,そして強運と伝説の人物であり,
小説にして最も面白い人物として多くの作家が認められています。
さて,長くなりましたが,今日は篠原涼子さんの「恋しさと せつなさと 心強さと」を
紹介します。有名すぎてありきたりではありますが名曲ですし。
15年以上たっているのに変わっていらっしゃらないのが凄いです。
今は女優として活躍されていますね。
逆境にも決してめげずに再起して成功した点では松永さまと
通じるところがあるように思います。
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